色鉛筆:はじめのいっぽ!

ヤッパリ京都!で!スケッチの日々…。

京都:銀閣寺 心残しし 時おわり

f:id:jinnseiiroiro:20150702054409j:plain

 

ここ京都は銀閣寺〜の、庭園!
 
銀閣を拝見しようと目的あれど、
ここ庭園は、そぞろ歩きでブラブラと。
 
例のごとく、ウィキペディアによりますと、
銀閣寺、「室町時代後期に栄えた東山文化を
代表する建築と庭園を有する」とあります。
 
その庭園の一角を写真、ネットお借りでスケッチ。
 
さて、この銀閣寺、「室町幕府8代将軍、足利義政」さんが
造営されたもの。
 
この足利の義政さん、
時、1449年1月2日にお生まれになられ、
時、1490年、延徳2年、1月の7日にお亡くなりに。
 
「幕府の財政難と土一揆に苦しみ政治を疎んだ」そうで。
そのかわり「自らは東山文化」を築かれた。
 
   めんどくさい政治より、楽しい〜文化、文化〜!
   てな感じだったのでしょうか?
 
イヤイヤ、当初はそうではなかったようで。
 
ウィキペディアによりますと…。
 
「当初の義政は祖父の3代将軍や父の政策を
 復活させようと試み」たのですが…、内紛、内乱。
 
これに積極的に介入〜!したりしたのですが…。
 
逆に乳母が〜、
母親が〜、
嫁(正室・富子)の実家が〜、     
さらに力を持っている大名が〜、
まぁ、皆さん、よってたかって、
義政さんの政治に介入〜!
 
    義政さんの仕切りも悪かったのでしょう。
 
義政さん、「政治の主導権を握ることは困難」に!
 
    まぁ、一番の身内、母親が〜、とか、
    嫁の実家が〜、とか、乳母が〜、とかが、
    あれやこれや、口出しされては大変です。
 
    これでは外にたくさんいる大名たち、
    政権争いに加わりたい大名たちに
    餌食にされますわなぁ。
 
    義政さん、孤独!
 
この困難極めた義政さんに、
とどめを刺したのが文政の政変。
 
内乱、内紛、足の引っ張り合いに、
義政さんを支える側近たちが「逃亡」
 
「義政側近層は解体に追い込まれ、
 手足となる家臣を喪失した義政は
 完全に政治への意欲を失っていった。」
 
もともと、この義政さん、政治が苦手のようで、
京都、鴨川にも餓死者の死骸が流れたという
寛正の大飢饉の時、当時の天皇さんの勧告さえも無視し、
邸宅、庭園の造営や猿楽、酒宴に溺れられていたそうで。
 
    コリャいけませんわねぇ。
    こんな政治をされたら庶民どころか、
    時の大名も黙ってみておれぬぅ〜!
 
そして、ご存知、「応仁の乱」が勃発〜!
 
「義政は当初は中立を貫き停戦命令を出したが」…。
 
誰も聞きません!
 
    そりゃそうですわねぇ。
    「もうイイや〜」な〜んて、適当に
    政治をしていているもんだから、
    ホントウに政治が嫌になった義政さん。
 
    身内も支えないと知っている大名たちは、
    義政さんが言葉を発しても、
    「そんなもん、誰も知らん!」で終わり。
 
てなこともあり、文明5年(1473年)
「義政は12月19日に将軍職を子の義尚へ譲って正式に隠居」
 
    さてさて、隠居もしたし、
    あとの自分の人生考えたら、
    いまから、銀閣寺、造営へ〜!
    とおもいきや…、そう簡単には…。
 
    嫁さんの富子さんと
    いろいろあったようで…。
 
晩年の義政さん、嫁さんから逃げるように長谷の山荘へ。
その翌年、東山山荘の建築を本格化させるも、
石の献上はあっても、お金の献上が…。
 
むりくり、公家さんや寺社からの取り立てでまぁ何とか。
 
    取り立てられた方は、ムカ!ムス!で
    言葉には出さずとも、腹の中では
    「このオッサン!」だったでしょう。
 
まぁ、何とか集めた石とお金で、
祖父(義満さん)が建てた金閣をベースに
銀閣を立て始めました。
 
    しかし、人生とは…。
 
1490年、延徳2年、
銀閣の完成をまたずして
お亡くなりに。
 
満54歳。
 
m(_ _)m